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【小話】悪夢 [小話]

オリジナルです。お題は『悪夢』。
現代ファンタジー系、と言うと一番しっくり来るんでしょうか。
スペインの片田舎、しがない贋作画家とそれに懐く少女のお話。


*

 油のにおいが意識を占領しはじめて、もう何時間が経過しただろう。薄暗い部屋の中、唯一隙間を開けられた窓から入り込んだ光がキャンバスを照らして揺れている。そこへゴミを捨てるかのような手つきで筆を入れ、男は大きく息を吐いた。
 自身もゴミ同然と汚れるままに、しかしそれがあくまで彼のスタンダードなのだと言わんばかりの平然とした面持ちは、精神的疲弊を色濃く映しながらも彼がまだ狂人の類いではないことを物語る。
「……また、来たのか、お前」
 ふと気配がした入り口へと振り向き、男は言った。
「もう来るなって、言っただろ」
 眉間に皺を寄せ、出来る限り静かに。しかし明らかな苛立ちを含んだ低い声が響く。その投げ掛けられた声の先には、微かに零れた太陽の光を透かして翻る――白よりもなお白いドレス。南欧に注ぐ陽光よりもあたたかな笑顔は穏やかに、暗い男とその根城をゆっくりと見渡していた。
「今日はどんな絵を?」
 しかし、自分の忠告がこの相手には何ら役に立たないことを、男はよく理解していた。今までこのようなやり取りを何度したことか。両手両足の指を使っても数え切れぬ。いつの間にか現れ、そして勝手に世話を焼き始めた一人の少女。その確かな生命感と純朴な佇まいは、最初こそ厄介払いをしていた孤独な男の心情を少しずつ変えつつあった。
「サン=ピエール教会、ノルマンディーの……」
 そして何気なく問われた少女の声に男は答えようとして――すぐにそれを止める。またしても現れたこの少女を追い払う気など既に消え失せていたが、彼が言葉を飲み込んだのには二つの理由があった。男は少女を知らない。少女もまた、男を知らない。
「お前に言っても、わかんねえよな」
 少女から目の前のキャンバスへと注がれた瞳は、一、二度瞬いてすぐに伏せられた。何の感慨も無く、しかし感情の赴くままでもなく。ただひたすら慎重に絵の具をペタリ、ペタリと重ねていく。そう、男は――紛れも無い画家ではあったが――贋作家であった。
 過去を嘯き、現世を欺き、己には、嘘をついて。その静かな観察眼と皮肉めいた思考回路、そして絵描きとしての確かな腕前は彼がまだ美術大学の学生だった頃から評判だった。本来であればそのまま一介の画家としての人生を謳歌し、そのまま終えることを彼を含めた誰もが望んでいたことだろう。しかし、彼はある日ふと姿を消した。名前も顔も記憶さえも、そこから消してしまった。
 『夢が迎えに来た』――マドリードでまだ彼が名前も顔も、そして画家としての生命をも保っていた頃。彼が『彼として』発した言葉は、それが最後だった。以降、優秀な美術大生であった彼の足跡はぷっつりと途絶え、それと同時に南欧の地コルドバでは一人の贋作家が誕生することとなる。
 贋作を取り扱う裏社会の画商にも、男の描く『絵』は評判だった。その緻密に観察され練られた筆致はどれもが真作と見紛う出来であり、また生半可な鑑定では彼の描いた作品を贋作と見抜くことはまず不可能だったのだ。
 ある日、画商が男に尋ねた。「どうしたらこれほどまで精確に似せられるのか」と。すると彼は決まってこう言った。「夢が、教えてくれる」と。
 こうして多額の報酬を得ることは、黄金に輝く蜜状の毒を指先で掬って舐め取る行為にも似ていた。それは絵画に対する明らかな冒涜であり、画家としての明らかな破滅であった。しかし、それでも男は描いた。作り続けた。絵を、そして贋作を。
 己自身の感性に任せて描くことを彼も一時は望んでいた。だが、いつも何かがそれの邪魔をする。己を唆し、導き、時には生かしそして殺す――そんな存在を、彼は身の内に飼っていた。彼はそれを、『夢』と呼んだ。絵描き以外ではいられない、そんな歪んだ執念を持つ彼の苦悩はいつでもその『夢』に始まり、そして『夢』に終わってしまうのだ。
「あの絵は……?」
 ふと、少女が奥に隠すように立てかけられていたキャンバスを指差した。その指に導かれるようにして、男もまたその延長線上に視線を投げる。
「……夢だよ。それも悪い、ね」
 描かれた絵が黒く見えたのは、それがひっそりと陰に立て掛けられていたからではなかった。キャンバスそのものが他でもない画家である男自身の手によって黒く塗り潰されていたからだ。そこに沈む色彩は描き手の心情を映してか、何とも形容しがたい不気味さを滲み出している。
 そしてその絵にも男は、『悪夢』と。極めて抽象的な名前を与えた。
「色んなものを夢に見るんだ。それを、描いてる。でも俺の『絵』は……『商品』以外は外に出しちゃいけない、決まり……だから」
 贋作家である以上、彼は彼という画家として人生を過ごすことを既に諦めていた。男の名が後世知られることとなればそれは、恐らく画家としてではなく立派な詐欺師としての名前であろう。
「どんな、夢を見るの?」
  抽象的な答えに返されたのは、やはり抽象的な問いだった。
「だからさっきも言っただろ、『色々』さ。ただ……」
 まだ幼い少女に己の何を言っても伝わらないことは男も勿論承知している。しかし、それでも彼はよく少女に話をした。そんなことで罪の意識が癒され、そして赦される訳など無いというのに。自ら選んだ孤独と夢とに苛まれる日々を、こんな小娘一人で救える筈など無いというのに。
 しかし、彼は自分の身の上を彼女にだけはぽつりぽつりと漏らすのであった。やはりそれはどちらかと言えば懺悔にも近い行為だったかもしれない。胸元のロザリオが、揺れた。
「色々、『過ぎる』夢なんだ」
 それは、悪夢と言うにはあまりにも美しく。また、啓示と言うにはあまりにも毒々しい――鮮やかな色彩で常に男の思考の一定領域を奪い、そして塗り潰して来たもの。
「少しでも楽になりたくてその夢を描くけど……でも、やっぱりだめだ」
 気付けば筆を持っていた手も止まり、男は首を振って項垂れていた。
「俺の絵は、外に出しちゃいけない」
 それは少女か、それとも彼自身に言ったものか、もしくは彼が中に飼う何ものかへの警告だったのか。しかしそれも束の間、男は長く息を吐くと少女を一瞥したきりまたすぐに目の前のキャンバスへと向き直った。
「もったいないわ。こんなに綺麗な絵なのに」
 暗いアトリエの外は今頃、夕食前の時間を縫ってバルへ向かう人々で賑わっていることだろう。傾いた日差しと微かに聞えてくる陽気な声は、悔しくも彼に郷愁じみた感情を抱かせる。
「そんなことを言ってくれるのは、お前だけだよ」
 筆先から滲む混じり合った色彩が、男の心情を映していくつもキャンバスに弾けた。



(了)
 



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